高瀬川 そぞろ歩き 角倉了以と幕末の史跡

京都の中心を流れる高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以と息子 素庵が開鑿した運河です。
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高瀬川開鑿以前 大阪からの物質は伏見船場で陸揚げされ 京都まで人馬で運ばれていました。

了以は伏見から二条までの10キロメートルに運河を築き、大阪と京都を水路で繋ぐ構想を描きました。

了以は開鑿に金融業で得た7万5千両(推定150億)もの私財と朱印船貿易で得た海外の知識や技術を用い 保津川 富士川 天竜川 鴨川開鑿で得たノウハウを活かしました。
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高瀬川には平底で水深が浅くても運航出来る高瀬舟が用いられたので高瀬川の名前はこれに由来しているそうです。

また 角倉川とも呼ばれました。
高瀬舟は15石舟(2トン)で最盛期には1日170艘もの舟が行き来したそうです。
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舟の係留や舟荷の積み降ろしの為に二条から四条の間に九ヶ所の舟入が設けられましたが、現存するのは木屋町二条の名勝 天然記念物『一之舟入』のみです。
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了以はここに役宅を設けて通船料を徴収しました。
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材木、炭、薪、醤油、米、塩などが運ばれて木屋町通り沿いには問屋と藩屋敷が建てられました。

運ばれた品から、塩屋町 米屋町 石屋町などの町名の名残があります。

明治時代になり高瀬川の管理は角倉家から府土木課へ移管されました。

やがて、チンチン電車や京都電鉄木屋町線 京阪電鉄の開通も重なり京都の繁栄を支えて来た高瀬川の役割も幕を下ろすこととなりました。

その高瀬川沿いには幕末の史跡が数多く残されています。

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河原町と御池通りの角にあったのは長州藩邸で桂小五郎の銅像が建っていて、今はオークラホテルになっています。
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そこから直ぐの場所には桂の妻となった幾松さんの家もあり、同じ名前で料理旅館として営業しています。

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1810年に建てられた建物は国の登録有形文化財に指定されていて、鴨川に面した客室からは東山や大文字山が見えるとか。

新撰組や幕府の役人から常に命を狙われていた小五郎はこの住まいを隠れ家としていたそうです。

幾松にも何度も危機が迫ったけれど
その度に命懸けで小五郎を救ったエピソードは有名です。

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近くには佐久間象山 大村益次郎 遭難の地があります。
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御池通りをわたると加賀藩邸跡がありました。
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木屋町通りからほんの少し東の三条大橋のぎぼうしにある新撰組の刀傷もちょっと探してみましょう。

三条大橋の南側、北側の西から二番目のぎぼうしにそのキズを見つけることが出来ました。
それは池田屋騒動の時に着いたキズらしいのです。

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三条小橋を渡ると豊臣秀次のお墓のある瑞泉寺があり、池田屋も直ぐ近くです。
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瑞泉寺には、豊臣秀次一族の興亡と瑞泉寺の縁起由来が描かれた瑞泉寺縁起絵巻が残されていて、高瀬川開鑿のさいに花も手向ける人もなく荒れ果てた様子に涙を流した了以により瑞泉寺が作られ秀次一族のお墓も整備されたようです。

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お寺の名前は豊臣秀次の法名に因んでいるそうです。

瑞泉寺の直ぐそばには坂本龍馬の海援隊の屯所跡の酢屋があります。
酢屋は竜馬と海援隊を匿った材木商。
傍の橋の名前は材木橋です。

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蛸薬師橋のたもとには土佐藩邸跡があり現在は元立誠小学校がそのままの姿でカフェや映画館として使用され
ここに角倉了以の碑が建てられています。
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また初めて映画を上映した場所として映画発祥の地と言う札が建てられていました。
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八之船入から九之船入までには本間清一郎遭難の地、古高俊太郎邸宅跡と続きます。

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四条通りを越えると真町お地蔵尊 涙の地蔵様があります。

森鴎外の小説 「高瀬川」にあるように
罪人を島流しに送り出す時 無事に帰れるようにと涙を流してお願いした地蔵様です。
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舟廻し跡の側に於石橋(善四郎橋)があります。
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四間ほどの川幅しかない高瀬川では舟の方向転換が出来ないため、二条から四条までに係留地を兼ねた船入と船廻しが設けられたそうです。
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更に木屋町通りを下ると松原橋です。

松原橋は清水寺の参道に当たるので
清水橋とも言い清水寺の勧進で賄われたので勧進橋とも呼ばれました。

天正年中 秀吉が大仏参詣及び伏見往還の便の為に六条坊門に大仏橋をかけさせ通り名も大仏通りと称したのですが、のちに五条石橋と改めて称された。

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古い方の五条橋は松原橋となり五条通りも松原通りとなり現在に至っている。
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牛若丸と弁慶の五条橋での出会いも現在の松原橋の上となりますが、
二人の像は現在の五条大橋のたもとにあります。

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五条通りと高瀬川の近く 榎橋東詰めには榎の大木が高々と茂っています。
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光源氏のモデルとなった源融(嵯峨天皇の第六皇子 822~895年)が構えた河原院は南北が今の五条通りから六条通りまで、東西が柳馬場から鴨川河原に至る広い地域を占め、壮麗を極めたと言われています。

源融は、邸内に陸奥の国塩釜の景色を移し難波江(大阪湾)から潮水を運ばせて塩を焼く煙の風情を楽しんだそうです。

塩釜の浦の沖合いにあった籬の島に見立てた森の名残が今に残る老榎の大木と言われ 河原町の名前の由来も河原院に因んでいるとか。

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宇治にある源氏物語ミュージアムの光源氏の六条院を頭に思い浮かべて辺りを見渡してみました。

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