烏丸通りと四条通りの交差点から今日は西側を歩いてみました。
一番の目的は本能寺の跡地探しです。
寺町通りにある本能寺は本能寺の変の後に出来たもので織田信長が亡くなったとされる本能寺は烏丸通りより西側の現在の油小路通りと蛸薬師通りの交差するあたりにあったそうです。
本能寺跡の碑があるようなので日陰を探しながら歩いて行きました。
本能寺の変があったのは1582年6月2日だから新暦だと7月で明智光秀は恐らく私が歩いた方向から進撃し午前4時ごろには本能寺を完全に包囲していたらしいのです。
その本能寺の跡地は現在 特別養護老人ホームなどの施設が建っていました。
天下統一目前にしてここ本能寺で寺と共に炎に包まれた織田信長の遺体は見つからなかったとか。
以前 訪れた阿弥陀寺のご住職のお話では本能寺の変を聞きつけて急ぎやってきた当時の阿弥陀寺の僧侶が敵に首を取られないように信長の首を運びだして阿弥陀寺にこっそり葬ったと言う話がお寺には伝わっているそうです。
確かに阿弥陀寺には信長のお墓も森蘭丸兄弟のお墓もありました。
私にもそのお話は本当のように思われました。
本能寺跡には本能寺辻子と呼ばれる細い道が油小路通りと小川通りを繋ぐように伸びていました。
辻子と言えば先ほど四条通り南側の西洞院手前でも変わった名前の道を見つけました。
膏薬(こうやくの)辻子と言う名前で説明には
膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられた。
この地域は、皇后を何代も排出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。
とあり気になって奥に入って行くと直ぐに京都 神田明神をみつけました。
伝承によれば、天慶3年(940年)の「天慶の乱」で戦没した平将門公の首が京に運ばれて晒された場所であり、後に市聖と崇められていた高僧・空也上人によって鎮魂が為され、供養のために建てられた小祠であると伝えられています。
そのため、いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、これが「クウヤクヨウ…」と転訛して「コウヤク」となり、細い路地に位置することから「膏薬の辻子(こうやくのずし)」という地名になったとも云われているそうです。
また、江戸時代に刊行された地誌には「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」という内容が書かれているとされています。
平将門と言えば、先日行った九十九里のお不動さま御上陸の地はまさに平将門の乱を鎮める為に京都より御不動様を運び上陸した場所でした。
まさかここで平将門の言われのあるこんな細い露地に入り込むとは御不動のご案内によるものだったのでしょうか?
平将門の霊を供養した空也上人は六波羅蜜寺の口から念仏を唱えておられるお姿が印象的ですが、本能寺跡すぐそばに空也堂を発見しました。
説明文には
空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も行った。そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。 毎年11月の第2日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服(おうぶく)茶の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏と重要無形民俗文化財の六斎(ろくさい)念仏焼香式が奉修される。中京区蛸薬師通堀川東入亀屋町
とありました。
そしてこの本能寺の直ぐ近くに南蛮寺があったことも思いだし探してみました。
安土桃山期、キリスト教宣教師が京都に建てた教会。1560年(永禄3)六角通室町西の民家を会堂とし、のち四条烏丸に移り再びここに1576年(天正4)教会を完成させ南蛮文化の中心に。1588年(天正16)豊臣秀吉の禁教令で破却。
このあたりだけでもディープな歴史が満載です。
暑い中歩いていたので喉が渇き 柳の水を思い出しました。
たしかここから程近い場所だったはず。
柳の水とは平安時代から渇れることなく今も飲料水として使われている名水で千利休もこの水でお茶をたてたそうです。
今は染色屋さんになっているので声をかけて中にずんずん入り込みペットボトルにお水を入れて喉を潤しました。
1000年以上前にはこの地は藤原朝成の屋敷でした。
また崇徳上皇の仙洞御所として使われた時代もあったそうです。
室町時代には田村珠光が住み、江戸時代には前田玄以、そして1620年前後には
織田信長の次男の信勝の邸宅だったようにとってもとっても由緒のある場所にある井戸の水はとても美味しいです。
信勝が日除けに柳を植えたことから柳の水と言われたとか。
更に加藤清正の邸宅となり寛永の三筆の一人 松花堂昭乗は柳の水でないと墨も筆も伸びないと徳川家光に言ったそうな。
現在お住まいの馬場染工場さんはこの水で黒染をされていますがそんか歴史ある貴重な井戸の水だから誰にでも立ち入りを許してくださって大切に守っておられるのでしょうね。
喉も潤ったので更に歩きます。
烏丸通りと四条通りを南に進んで大政所御旅所に。
先ほど歩いた界隈には沢山の山鉾保存会がありました。
祇園祭の時にひく山鉾はこの界隈の商人たちによって長い時間伝統が守らて来ました。
八坂神社の祇園祭と関わりがあるのです。
説明によると
八坂神社のかつての御旅所で神輿の渡御があった。現在は小祠が建っているのみ。天延2年(974)に東洞院高辻に住していた秦助正の夢に神人が現れ、「汝の家を影向の地とせん速やかに朝廷に奏上せよ」との宣託があり、翌朝庭の塚から蜘蛛の糸が祇園社までつづいていたので朝廷に奏上した。時の円融天皇も同じ夢を見ておられ、助正の宅を御旅所とし、東洞院方四町を御旅所の敷地として寄付せられ、大政所といって神殿を造られた。のち天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により、ただいまの四条京極の地に御旅所は移転した。桃山時代作の祇園社大政所絵図に、在りし日のにぎやかな様子が描かれている。
何処をどのように歩いても歴史が詰まっているのが京都です。
新幹線の中でおにぎりを食べただけだったので錦市場でだし巻き玉子を買って「錦上ル」に向かいました。
こちらでは錦市場で購入したものを食べる事が出来ます。ただし一品だけはオーダーしなければなので私はご飯セットを御願いしました。
錦市場で購入しただし巻き玉子をお皿に並べてもらい軽いランチの定食になりました。ご飯セットはたしかワンコインでだし巻き玉子は200円でお釣が来たような。
これから甘いものをお腹に入れるにはちょうどよい量のランチとなりました。
お腹も一服して甘いものが欲しくなってかき氷も食べに行きました。
いつもなお気に入りの甘味処で一服。
八坂神社近くには漢字検定博物館
がオープンしていました。
中の展示スペースには実物大の鉾が展示されていました。
漢字検定博物館をあとにして八坂神社の中を歩きます。
円山公園の中の山鉾の保存倉庫の前を歩きますと
八坂神社の山鉾の倉庫を抜け行くと春にみた枝下桜がまるで違う姿でお出迎えしてくれました。
円山公園の隠れ家茶寮でほうじ茶を頂き
撞木(しゅもく)辻子のお蕎麦やさんでハモ天ぷら蕎麦を頂き1日が終わりました。