堺に残る町屋とまちなみ

またしても堺を訪れることになりなかなか歩く機会の無かった北エリアに足を伸ばしてみました。

そもそも堺は大道筋(昔の紀州街道)に添って阪堺電車(チンチン電車)が走っています。

その阪堺電車の綾之町電停から北を北エリアと分けているようで、この辺りには刃物屋さんが多く千利休の時代には鉄砲鍛冶屋が並んでいたそうです。

その面影を残したまちなみが保存され町屋も見学できるのです。

千利休の時代 堺は国際貿易都市として栄えましたが、1615年の大阪夏の陣で約2万個とも言われた家や寺は兵火にあい壊滅的な被害を受けたそうです。

しかしこの戦いに勝利した徳川家康はすぐに復興に着手し「元和の町割り」は現在まで引き継がれたとされています。

鉄砲鍛冶屋敷は、日本で唯一現存する貴重な江戸時代の鉄砲鍛冶工房です。

内部は非公開ですが、建物の外観には今ではあまり見かけることの無くなった格子などを見る事が出来ます。

お向かいにある堺鉄砲館では火縄柔などが展示されてお話も伺う事が出来ました。

堺私立町屋歴史館 清学院の前を通り綾之町の電停まで戻って来ました。堺には応仁の乱の戦乱を逃れて来た京都 西陣の織物師がこの貿易の町で中国からの生糸を入手して、さらに中国から職人を呼び寄せて金蘭などの新技術を取り入れ織物を発展させました。

その事が綾之町や錦之町と言う地名に現れています。

山口家住宅は日本最古級の民家です。

1689年の堺大絵図には山口家の屋号である「越前屋」の名前が記されているそうです。

400年の歴史の中で、その時代の暮らしに合わせて二度の大改造が施されましたが、土間に続く三室は1966年に国の重要文化財に指定されました。

山口家住宅から南エリアにも虫籠窓の家や

格子の美しい家
うだつのある家

つし(逗子)二階の家など
昔の家のまちなみを見て歩く事が出来ました。

この日は久しぶり暑い1日でしたのでつぼ市茶寮でかき氷を頂きました。
2005年から続けてきたこのMrs.Yのブログも500ポストを越え画像の友人容量がいっぱいになってため 続きはMrs.Yの備忘録に書き続けて行こうと思います。

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Mrs.Yの備忘録2

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に続きます。

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天使突抜通りと五条天神宮

先日歩いたのが 大通りを繋ぐ辻子(ずし)と言う道でした。

基本的には道の向こう側まで貫通されているそうですが、稀には通り抜け出来ない辻子もあるようです。

そして露地(ろーじ)。

こちらは行き止まりの道で、路地の入り口には敷地内の住人の名前の表札がかかっていることが多いと言うので観察しながら歩いているとそんな露地も結構 見つけることが出来ました。

そして辻子とは違い、一般的に障害物を取り壊し突き抜いて作られた道を突抜と言うそうです。

京都には天使突抜通りと言う可愛らしい名前の道があると知り仏光寺通りを歩いているとちょっと不自然に細い道が伸びていました。

両側の塀や民家が迫っていて細い道です。

つらつらとまるで辻子のような道を歩いて行きますと、

高辻通り沿いに何やら石碑があるので覗いてみると比叡山の僧侶の道元禅師に関わりのある場所のようです。

調べてみると
1252年(建長4年)、夏頃から体調を崩され、翌年には永平寺を懐奘(えじょう)禅師にゆずられます。8月には療養のため京都の俗弟子、覚念の邸宅へ行かれましたが、治療の甲斐なく1253年9月29日(陰暦8月28日)に54歳でその生涯をとじられました。
とのことで、弟子の覚念僧侶の邸宅跡のようです。
後程 入った喫茶店のマスターのお話では毎年亡くなった日には比叡山より僧侶が来てお祈りされているそうです。

道の名前のある看板を見つけたのでパチリしながら更に歩いて行くと松原通りまでやって来ました。

松原通りと西洞院通りの辺りに鳥居が見えて来たので行ってみると

五条天神さんでした。

牛若丸と弁慶の出会いの場所がこのあたりであったので松原通りにはこんなものもありました。

一般的には天神さんは菅原道真を祀っていますが、ここ五条天神では天からの御使いとして大国主命と協力して国造りに尽くした少彦名命(すくなひこな)が祭られています。

さる本を読んだ時に書いてあったのは、このすくなひこなは古代神話によると、常世の国から天を飛ぶ船に乗ってこの世に往来して国造りをしたそうですが、その姿形がとても小さかったそうです。

ですがら一寸法師と重ねられているとかないとか。。
平安京に遷都するにあたり桓武天皇が奈良から呼び寄せ都の守護を託したそうです。

ですので、天使の宮、あるいは天使社と呼ばれていましたが、後鳥羽院の時代に五条天神宮と改められたそうです。

その五条天神に999本の刀を奪った弁慶は1000本目に極上の刀が手にはいるように祈っていると牛若丸(源義経)に遭遇したそうです。

牛若丸のお話では五条大橋の上での出会いとなっていますが、かつての五条大橋は今の松原橋ですので、ここ五条天神での出会いと言う方が真実なのかなと思われて来ます。

少し疲れので天使突抜と五条天神の間にある喫茶店で一休み。

喫茶店のマスターから天使突抜町は一丁目から四丁目まで500メートルほどあると教えて頂きました。

この通りの正式な名前は東中筋通りなのですが、豊臣秀吉の時代に平安遷都からの由緒ある五条天神の境内を分断して突き抜いて道を作ってしまったそうです。

天使社の中を突き抜いたので天使の突抜と言うことなのでしょうか?

名前のニュアンスとは違ってちょっぴり怖いお話でした。

喫茶店のマスターが天使突抜町に暮らすマリンバ奏者の通崎睦美さんがこの街で暮らすが故の体験談を綴っておられると教えてくださいました。

いったいどんな体験なのかな?と本を読んでみたくなりました。

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仏光寺通りの菅大臣神社と菅原道真の邸宅跡

仏光寺通りにはその名前の由来の仏光寺があります。

もともとは親鸞上人が、山科に草庵を結んだのが始まりで、のちに後醍醐天皇より阿弥陀仏光寺との勅額を賜ったことに因んでいるそうです。

仏光寺通りには赴きのある建物が沢山残っていて、与謝野蕪村の終焉の棲みかの建物や石碑もありました。

仏光寺通りを更に西に向かってあるいて行くと道路の端に菅家邸宅跡の碑を発見しました。

碑は仏光寺通りを挟んで向かい合わせに二つあり北側の碑の奥に小さい祠が見えました。

こちらは今から1000年前の菅原道真の菅家廊下と言われる学門所があった場所だそうです。

南側の鳥居には菅大臣神社とあり中に入って行くと菅原道真を祭った神社のようです。

後で調べてみるとやはりこのあたりに広大な菅原道真の邸宅跡があったようで仏光寺通り南の鳥居の神社は北菅大臣神社 またの名を紅梅殿といい道真の父 是善祀り、北の菅家神社は道真本人を祀っているそうです。

神社の説明によると、紅梅殿については清少納言の『枕草子』第20段で「素晴らしい邸宅」の一つとして記されています。
かつては二つの神社は同じ敷地にあったようようなので、仏光寺通りは平安時代より後で出来た道と言う事になりますね。

菅大臣神社は白梅殿とも言われ、境内には道真が産湯をつかった井戸や有名な飛梅の木がありました。

仏光寺通りの鳥居だけでなく西洞院通りに面したところにも鳥居が建っています。

西洞院通りはかつては川だったとこの後入った珈琲店のマスターさんに教えて頂きました。
私が仏光寺通りを西に向かっているのは、西洞院通りと油小路の間に南北に走る天使突抜と呼ばれる道を歩いてみたいと探しているとまたもや赴きのある建物を発見しました。

説明によると

秦家住宅は、元治元年(1864)におこった元治の戦いによって焼失後、明治2年(1869)上棟された「表屋造り」の京町家です。
 表構えは間口が5間、南側三間半を厨子2階建。2階には額縁付きのむしこ窓を開き、北側1間半は下屋庇付きの平屋建。 二階むしこ窓の前には屋根付きの大きな看板を掲げている外観は 下京の伝統的商家のおもむきをよく残しています。表家、玄関棟、住居棟、土蔵(中庭・奥庭を含む)は、京都市有形文化財登録になっています。

とありました。

新しい発見ばかりでなかなか先に進めないのが京都の魅力です。

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新京極通りの寅薬師と蛸薬師と染殿院

京都を訪れると必ず歩きたくなる通りがいくつかあります。

錦市場のある錦通りとか寺町通りとか。

寺町通りに平行して三条から四条まで南北に走る新京極通りは名前からも比較的新しい道であるようです。


それでも沢山の由緒ある寺社がおみやげもの屋さんや食べ物屋さんの合間に多くあり、あっちこっちとお参りしながら歩くのが楽しい通りです。

紫式部や和泉式部と関わりのある誓願寺や随心院を過ぎると聞きなれない寅薬師さんがあります。


ちょっと注意深く見ていないと見過ごしてしまいそうな奥まった場所にあり 細い露地を入っていくとお寺と言うより普通のお宅のような雰囲気のある不思議なお寺ですが、由緒正しい歴史のあるお寺のようです。

開山は1279年、朝廷から寅薬師如来の尊像(弘法大師が謹彫。成就の日が寅の日であったので寅薬師と称して宮中に泰安)が下され伽藍を建立したそうです。正式名称は西光寺です。
寅薬師を過ぎて、蛸薬師通りの突き当たりにある通称 「蛸薬師」は安徳天皇の御世のお寺で正式名は永福寺です。


その昔 この寺に住まいしていた善光と言う若い僧侶が重い病にかかった母の「蛸が食べたい」と言うたっての願いを聞き、思い悩んだ末に僧侶の禁を破って市場で蛸を買いました。

しかし、町の人々にそれを見咎められ、一心に「薬師如来さま この難をお救いくださいませ」と祈ると、手元の蛸は光を放ち法華経八巻に変化し不思議なことにその威光に照らされた母の病はたちまち癒えて元気になったのです。

以来 京の町の人々は「蛸薬師さん」と親しみを込めて呼ぶようになったそうです。


その境内には、左手でそっと触っただけで病が治ると言うタコさんの像がありました。


元  二条室町から豊臣秀吉により現在の場所に移されました。

新京極通りの一番 四条通り寄りにも やはりちょっと目に入り難い間口の狭い露地があり中にはお地蔵さんが見える染殿院があります。


文徳天皇の皇后 藤原明子(染殿皇后)がこのお地蔵さまに祈願したところ 清和天皇が誕生したことから安産のお地蔵さまとして祭られているそうです。


新しいものと古いものが混在している新京極通りでした。

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岡崎から花の御所まで 応仁の乱から祇園祭まで

今年は伊藤若冲 生誕300年と言うことで各地で若冲展が催されています。


先日 東京上野の博物館での若冲展では待ち時間がとてつもなく長かったことで話題になっていましたが、京都は岡崎の平安神宮近くの細見美術館の若冲展を訪れてみました。

案の定 すでに入場を待つ列が出来ていましたが、実際に待ったのは20~30分でした。

若冲の鶏 さまざま、 画に遊び 画に生きる、若冲ゆかりの京の寺院、若冲の弟子 若冲派と言う分類で展示されている作品は見事で本当に絵が上手い人だったと思いました。

細見美術館の展示は4日の日曜日までで10月4日からは京都市美術館で「若冲の京都 KYOTOの若冲」展が行われるようです。


比較的スムーズに観賞して、岡崎通りを歩いているとウサギさんが氏神様の御使いとされる岡崎神宮の別院に親鸞上人の草庵跡があると知り草庵跡の庭園に寄ってみました。


庭園は少し奥まった場所にあり まさに市中の山居、別世界に入り込んだような気持ちになりました。


岡崎神宮 別院を出ると直ぐに金戒光明寺の南門に続く細い参道をみつけました。


金戒光明寺は幕末に京都守護職である会津藩主 松平容保が宿所にしていたので明治維新の時に命を落とした会津藩士のお墓があることで有名です。


会津藩士のお墓に行く参道横には徳川二代将軍 秀忠の正妻 お江の供養塔もありました。


金戒光明寺を突き抜けると真如堂が見えて来ます。


今は青紅葉が綺麗でしたが、秋になると紅葉が素晴らしく隠れた紅葉スポットです。


真如堂でしばし時間を過ごして吉田山荘に向かう時に藤原道長の娘で一條天皇の中宮である藤原彰子の邸宅跡の東北院をみつけました。


藤原彰子に使えた和泉式部も住んでいたという説明文もありました。


東北院をあとにすると吉田山荘に向かいました。


吉田山荘は吉田山の麓にある昭和天皇の義理の弟である東伏見宮家の別邸として建てられました。


今は料理旅館になっていて運良くランチを頂けることになりました。


仲居さんのお話では、東伏見宮様が京都大学で考古学をお勉強される為にこちらにお住まいになったそうでお隣に立つ 今はカフェの真古館は宮様が大学に通うお車の運転手の住まいだったそうです。


後に今の吉田山荘がこの邸宅を料理旅館にする事が許され今に至っていますが、蔵の中にあった宮家の食器や家具などもそのまま使われているとの事でした。


総桧造りの建物は重厚な存在感に溢れ屋根瓦や欄間 襖の取っ手には皇室ゆかりの「裏菊紋」があしらわれて格式の高さが偲ばれます。

お玄関の内装には 銅鏡の背面模様からデザインされたステンドグラスがはめ込まれ和と洋が見事に融合されていました。


私達が通されたお部屋は花の間で ちょうど大文字山と東山や平安神宮の大鳥居の見える角部屋でした。


三方を窓に囲まれて素晴らしい景色が借景になっていて窓枠の上のステンドグラスは玄関にあったステンドグラスのデザインの一部がモチーフにされているようです。


もちろん 障子の把手は裏菊紋でした。

大文字焼きの日にはお泊まりのお客様やお食事のお客様にこな部屋を解放して大文字山に火が灯るとお酒を満たした杯に大文字焼きの灯を写して頂くそうです。

一年の厄除けの意味があるそうです。

今年の大文字焼きの日は大雨だったけれどなんとか杯に灯を写すことが出来たそうです。

大文字焼きの翌日には山に登り炭を持ち帰る人が見えるそうです。

持ち帰った炭は紙に包み一年間飾っておくのだそうです。

京都の人のしきたりを伺いながら頂くお料理は美味しく贅沢な時間でした。


まむしに注意の看板を横目に吉田神社の北参道からクネクネと登ったり下ったりしながら吉田山を歩き吉田神社に到着しました。


吉田神社はもともと清和天皇の頃、貞観元年4月(西暦859年)に中納言藤原山蔭によって京の都の鎮守社として奈良の春日大社から勧請、創建されました。

本宮では建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)伊波比主命(いはいぬしのみこと)天之子八根命(あめのこやねのみこと)比売神(ひめがみ)の四神が祀られます。
当初は山蔭一門の氏神として、また後には藤原氏全体の信仰を集めるようになりました。

鎌倉時代以降は卜部氏(後の吉田氏)が神職につき、一門には徒然草で有名な吉田兼好がいます。
江戸時代には全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ明治になるまで神道界に大きな権威を持ち栄えたお社で、今も七五三や結婚式など諸々の節目や節分行事などで広く親しまれ信仰を集めています。

そんな訳でしょうか?


境内で鹿の像を発見しました。奈良の春日大社でも鹿は神様の御使いとされています。

興味深かったのは お菓子やお饅頭の神様が祭られていたことです。


和菓子協会の方々や職人さんがお参りするのでしょうか。

こちらでお菓子の神様とされるのは古事記や日本書紀に登場する田道間守命(多遅摩毛理などとも)と、お饅頭を日本で初めて作った林浄因命です。

田道間守は今の兵庫県但馬地方出身と伝えられ、垂仁天皇の命で不老不死の薬とされる非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰ったとされています。
田道間守が帰国した時にはすでに天皇は亡く、悲しみのあまり田道間守も亡くなってしまったそうですが、天皇の墓前に植えた「非時香菓」は柑橘類の一種である橘とされ、最初に移植されたのが和歌山県海南市の「橘本神社」とされています。

また林浄因は1349年宋の国から帰化し、奈良にて日本で初めて甘い餡を使い饅頭を作った人物です。
子孫は後に奈良から京都へ移り住み、その場所は中京区烏丸三条辺りで、今も饅頭屋町の地名が残っています。
さらに江戸時代には今の塩瀬総本家として東京へと移り現在に至るそうです。


階段を下り二の鳥居 一の鳥居をくぐり表参道を行くと京都大学の正門があり時計台が見えて来ました。


京都の校内を東から西に突き抜けて、ここから御所北側にある上御霊神社に向かいました。


794年、平安遷都に際し桓武天皇の勅願により王城守護の神として奈良・平安時代初期に不運のうちに薨じた八柱の神霊を神泉苑の「御霊会」で祀ったのが御霊神社の起源とされ、のちに明治天皇の御願により祭神五柱が増祀されました。平安時代には御霊信仰〔天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする信仰〕が盛んで、御霊神社は古来疫病除の霊社として有名です。室町時代になると、畠山政長が御霊の森で畠山義就と戦ったことから「応仁の乱」発祥の地と言われています。

因みにこちらの上御霊神社に対して寺町通りの一保堂の近くに下御霊神社がありました。


京都を焼き尽くした応仁の乱の勃発の碑と反対側の鳥居の下には花の御所八幡宮の碑がありました。


神社の方の説明ではかつてこの御霊神社の北側には花畑があったそうでその花畑の花を御所に納めていたのがこの石碑の由来との事でした。

足利氏の室町幕府も花の御所と言われていました。


花の御所と言われる所以は、庭園には鴨川の水を引いた池が掘られ周りには足利義満に取り入らんとする公卿たちから送らた銘木名花が咲き競っていたからとか。

また室町幕府と呼ばれたのは室町通りに面していたからでしょう。

やがて先ほどの上御霊神社から応仁の乱が起き室町幕府は滅亡して行きました。

そして11年続いた乱で京都は焼け野原になり戦乱の世に突入して行くのでした。

しかしながら焦土となった京都を再建させて行ったのは京都に住む町衆で1500年には二十年ぶりに祇園祭も復活させたと知り尚更祇園祭が京都にとって大切な物なのかと思うのでした。

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本能寺跡と京都町歩きと辻子

烏丸通りと四条通りの交差点から今日は西側を歩いてみました。

一番の目的は本能寺の跡地探しです。

寺町通りにある本能寺は本能寺の変の後に出来たもので織田信長が亡くなったとされる本能寺は烏丸通りより西側の現在の油小路通りと蛸薬師通りの交差するあたりにあったそうです。

本能寺跡の碑があるようなので日陰を探しながら歩いて行きました。

本能寺の変があったのは1582年6月2日だから新暦だと7月で明智光秀は恐らく私が歩いた方向から進撃し午前4時ごろには本能寺を完全に包囲していたらしいのです。

その本能寺の跡地は現在 特別養護老人ホームなどの施設が建っていました。

天下統一目前にしてここ本能寺で寺と共に炎に包まれた織田信長の遺体は見つからなかったとか。

以前 訪れた阿弥陀寺のご住職のお話では本能寺の変を聞きつけて急ぎやってきた当時の阿弥陀寺の僧侶が敵に首を取られないように信長の首を運びだして阿弥陀寺にこっそり葬ったと言う話がお寺には伝わっているそうです。

確かに阿弥陀寺には信長のお墓も森蘭丸兄弟のお墓もありました。

私にもそのお話は本当のように思われました。

本能寺跡には本能寺辻子と呼ばれる細い道が油小路通りと小川通りを繋ぐように伸びていました。

辻子と言えば先ほど四条通り南側の西洞院手前でも変わった名前の道を見つけました。

膏薬(こうやくの)辻子と言う名前で説明には

膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられた。

この地域は、皇后を何代も排出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。

そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。

とあり気になって奥に入って行くと直ぐに京都 神田明神をみつけました。

伝承によれば、天慶3年(940年)の「天慶の乱」で戦没した平将門公の首が京に運ばれて晒された場所であり、後に市聖と崇められていた高僧・空也上人によって鎮魂が為され、供養のために建てられた小祠であると伝えられています。

そのため、いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、これが「クウヤクヨウ…」と転訛して「コウヤク」となり、細い路地に位置することから「膏薬の辻子(こうやくのずし)」という地名になったとも云われているそうです。

また、江戸時代に刊行された地誌には「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」という内容が書かれているとされています。


平将門と言えば、先日行った九十九里のお不動さま御上陸の地はまさに平将門の乱を鎮める為に京都より御不動様を運び上陸した場所でした。


まさかここで平将門の言われのあるこんな細い露地に入り込むとは御不動のご案内によるものだったのでしょうか?



平将門の霊を供養した空也上人は六波羅蜜寺の口から念仏を唱えておられるお姿が印象的ですが、本能寺跡すぐそばに空也堂を発見しました。

説明文には


空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが、正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざんこうしょうじごくらくいん)と号する、天台宗の寺。天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も行った。そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。 毎年11月の第2日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。王服(おうぶく)茶の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏と重要無形民俗文化財の六斎(ろくさい)念仏焼香式が奉修される。中京区蛸薬師通堀川東入亀屋町

とありました。

そしてこの本能寺の直ぐ近くに南蛮寺があったことも思いだし探してみました。

安土桃山期、キリスト教宣教師が京都に建てた教会。1560年(永禄3)六角通室町西の民家を会堂とし、のち四条烏丸に移り再びここに1576年(天正4)教会を完成させ南蛮文化の中心に。1588年(天正16)豊臣秀吉の禁教令で破却。


このあたりだけでもディープな歴史が満載です。


暑い中歩いていたので喉が渇き 柳の水を思い出しました。


たしかここから程近い場所だったはず。


柳の水とは平安時代から渇れることなく今も飲料水として使われている名水で千利休もこの水でお茶をたてたそうです。

今は染色屋さんになっているので声をかけて中にずんずん入り込みペットボトルにお水を入れて喉を潤しました。

1000年以上前にはこの地は藤原朝成の屋敷でした。


また崇徳上皇の仙洞御所として使われた時代もあったそうです。


室町時代には田村珠光が住み、江戸時代には前田玄以、そして1620年前後には

織田信長の次男の信勝の邸宅だったようにとってもとっても由緒のある場所にある井戸の水はとても美味しいです。


信勝が日除けに柳を植えたことから柳の水と言われたとか。


更に加藤清正の邸宅となり寛永の三筆の一人 松花堂昭乗は柳の水でないと墨も筆も伸びないと徳川家光に言ったそうな。


現在お住まいの馬場染工場さんはこの水で黒染をされていますがそんか歴史ある貴重な井戸の水だから誰にでも立ち入りを許してくださって大切に守っておられるのでしょうね。

喉も潤ったので更に歩きます。


烏丸通りと四条通りを南に進んで大政所御旅所に。

先ほど歩いた界隈には沢山の山鉾保存会がありました。

祇園祭の時にひく山鉾はこの界隈の商人たちによって長い時間伝統が守らて来ました。

八坂神社の祇園祭と関わりがあるのです。

説明によると


八坂神社のかつての御旅所で神輿の渡御があった。現在は小祠が建っているのみ。天延2年(974)に東洞院高辻に住していた秦助正の夢に神人が現れ、「汝の家を影向の地とせん速やかに朝廷に奏上せよ」との宣託があり、翌朝庭の塚から蜘蛛の糸が祇園社までつづいていたので朝廷に奏上した。時の円融天皇も同じ夢を見ておられ、助正の宅を御旅所とし、東洞院方四町を御旅所の敷地として寄付せられ、大政所といって神殿を造られた。のち天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により、ただいまの四条京極の地に御旅所は移転した。桃山時代作の祇園社大政所絵図に、在りし日のにぎやかな様子が描かれている。

何処をどのように歩いても歴史が詰まっているのが京都です。

新幹線の中でおにぎりを食べただけだったので錦市場でだし巻き玉子を買って「錦上ル」に向かいました。

こちらでは錦市場で購入したものを食べる事が出来ます。ただし一品だけはオーダーしなければなので私はご飯セットを御願いしました。

錦市場で購入しただし巻き玉子をお皿に並べてもらい軽いランチの定食になりました。ご飯セットはたしかワンコインでだし巻き玉子は200円でお釣が来たような。

これから甘いものをお腹に入れるにはちょうどよい量のランチとなりました。

お腹も一服して甘いものが欲しくなってかき氷も食べに行きました。

いつもなお気に入りの甘味処で一服。

八坂神社近くには漢字検定博物館

がオープンしていました。

中の展示スペースには実物大の鉾が展示されていました。

漢字検定博物館をあとにして八坂神社の中を歩きます。

円山公園の中の山鉾の保存倉庫の前を歩きますと

八坂神社の山鉾の倉庫を抜け行くと春にみた枝下桜がまるで違う姿でお出迎えしてくれました。

円山公園の隠れ家茶寮でほうじ茶を頂き

撞木(しゅもく)辻子のお蕎麦やさんでハモ天ぷら蕎麦を頂き1日が終わりました。


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聖徳太子と四天王寺

聖徳太子は今から1400年以上前の574年に厩戸の前でお生まれになりました。

その頃 朝鮮半島には百済、新羅、高句麗の三国があり中国には大国である隋がありました。

これらの国から色々な文化が入って来ましたが、幼い厩戸皇子は渡来人もかなわないほど深い知識と学門を身につけたそうです。

厩戸皇子の父である用明天皇は仏教の帰依を表明しましたが、推進派の蘇我馬子と反対派の物部守屋の対立はますます激しくなりました。

天皇の死をきっかけに厩戸皇子は蘇我馬子と共に物部守屋討伐に奮戦しましたが、戦いは一進一退でした。

ある時苦戦して退却し木の祠に逃げ込んだ時にこの上は仏様のお力にすがるよりなく、ヌルデの木で国土守護の小さな四天王を彫り「この戦いに勝つことが出来れば必ず四天王のおんために寺塔を建てお祀りします」と誓ったのでした。

また馬子も「仏法を興隆します」と祈りました。

更に一進一退をしていると、物部守屋の軍は総崩れとなりその家来たちも降伏したそうです。

やがて日本で初めての女帝 推古天皇が即位すると、19歳の厩戸皇子を摂政に命じ厩戸皇子は聖徳太子と言われるようになりました。

推古天皇の「三宝(仏 、法、僧)を興隆せよ」との詔を受けて聖徳太子は早速仏教の奨励を打ち出し 政治の基調に仏教を採用することを宣言したのでした。
馬子は飛鳥の地に法興寺(のちの元興寺)を建てました。

推古元年の 593年聖徳太子は日本仏法最初の官寺である四天王寺を建てたのでした。

今から約1400年前の事でした。

聖徳太子が四天王寺を建立するに当たっては敬田院(教育の道場)悲田院(老人 孤児の世話)施薬院(薬作り)療病院(病人の看護)の四箇院を構え福祉救済の施設が設けられました。

四天王寺は、現在に至るまで震災 落雷 織田信長の焼き打ち、また昭和20年の空襲などで何度も火災にあいました。

しかしながら発掘調査の結果 堂や塔の位置は変わりなく、排水溝には古い時代の廃瓦で作られた当時の排水溝跡が1200年もの間残されているそうです。

覗いて見るとちょうど元興寺で見た瓦とそっくりで同じ時代の物かなのかな?と推測されて感慨深いものがありました。

現在の伽藍のほとんどが昭和38年に再建されたものだそうです。


そんな四天王寺を目指し、天王寺駅から谷町通りを北に歩いて行くと四天王病院があり、すぐに四天王前の交差点がありました。

交差点からは石の鳥居が見えて来ました。

この石の鳥居は創建時の木造の鳥居を1294年忍性上人が石造に改めた時の物です。

くしくも、先日訪れた奈良の国立博物館では

忍性  救済に捧げた生涯 の展覧会が行われていました。

今まであまり知らない忍性でしたが、聖徳太子の足跡をたどっていたら、四天王寺で忍性の足跡もかいま見る事が出来ました。

鳥居の向こうには極楽門 西重門と五重塔が見えて来ました。

西重門を入って行くと五重塔がそびえて朱塗りの回廊が仁王門や講堂をぐるりと繋いでいます。

五重塔に登ってから金堂の中の聖徳太子の壁画を見学してから六時堂に向かいました。

六時堂は火災を免れた数少ない建てもので江戸時代の建築物のようです。

六時堂の前の石舞台では何か作業をしていました。阿倍野ハルカスも見えています。

太子殿とその後ろの奥殿は聖徳太子の御霊を祀る場所で、奥殿は法隆寺の夢殿様式の八角形です。

四天王寺の片隅にある守屋祠は、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋を祀っているのでしょうか?

物部氏滅亡のあと、物部氏の遺産の半分は朝廷に献上され、残りの半分で四天王寺を建てたと聞き その事と関係あるのでしょうか。

南大門をあとにして少し離れた場所にある庚申堂を探しながら歩いて行きました。庚申堂も四天王寺の一部との事でした。

さらに悲田院があったとされる場所も歩いてみました。

地名にその名残を見つけました。

冠位十二階の制度を作ったり日本初の憲法である 十七条の憲法で「和を以て貴しと為す」と説いた聖徳太子は亡き父の宿願だった金堂薬師如来座像を作り斑鳩の宮の近くに法隆寺を建てました。

法隆寺は現存する木造建築では世界最古のものです。

そして622年 49歳の生涯を閉じられました。

太子が亡くなってから4年後に馬子が亡くなり、そのあと推古天皇も崩御されました。

太子の死期 20年経って、蘇我馬子の息子 蝦夷は太子の息子の山背大兄皇子の住む斑鳩宮殿(法隆寺の夢殿あたり)に火を放ち 皇子は妃や幼い子供達と法隆寺で自害したのでした。

しかしその後、蘇我蝦夷、入鹿の親子も中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足に滅ぼされました。

やがて、太子の残した数々の業績と遺徳が大化の改新へと繋がって行ったのでした。

斑鳩の里から始まって、元興寺 更に四天王寺へと偶然にも聖徳太子の足跡を辿る事になりました。

それは やはり仏教の根底にある聖徳太子の偉大な功績の賜物だと思いました。

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元興寺と古代瓦とならまち

先月 奈良に来た時には少し遠出をして斑鳩や西ノ京などの寺院を回って飛鳥文化や白鳳文化の仏像などを見て回りましたが、ならまち界隈は歩いただけで、世界遺産の元興寺は外から眺めただけでした。

9月30日までの元興寺特別企画で、本尊の厨子入智光曼荼羅と元興寺極楽坊縁起絵巻 全編や古代瓦の見学を出来るので今回は元興寺とかつてはその境内だったならまちをじっくり歩いてみたいと思いました。

台風で新幹線は大丈夫かな?と思っていましたが、台風一過で無事に新幹線も動いていました。京都で大和路快速に乗り換え奈良駅に到着しました。

元興寺に向かってもちいど通りを通り抜けてまずはランチ代わりにかき氷を食べに行きました。

奈良町屋の和室で坪庭を眺めながら和三盆のかき氷を食べているとあたりが暗くなって雨が降って来ました。

雨宿りのつもりでさらに奈良だんごも頂いていると通り雨だったのか雨も止んで来たのでいざ元興寺へ。

元興寺は588年に蘇我馬子が飛鳥で起工した日本最初の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が前身です。

遠くインドの地で釈迦が開いた仏教が中国 朝鮮半島を経て日本に入って来たのは、日本書記によると552年で元興寺縁起によると538年と言われています。

新しく渡来した異国の宗教の受容の問題をめぐって、当時の新進派だった蘇我氏は崇拝を主張し、保守派だった物部氏は排斥に固執、両者の対立は次第に激しくなって来ました。
しかし587年になって蘇我馬子は厩戸皇子(のちの聖徳太子)と共に軍を起こして物部氏を倒し仏教受容の道を開きました。

その翌年 飛鳥の地に初めての正式の仏教寺建立に着手し それが元興寺の前身である法興寺でその地名から飛鳥寺とも言われています。

推古天皇元年には法興寺に塔を建て仏舎利が納入されました。

百済の国王はこの日本最初の仏寺建立を授けるために仏舎利を献じたのをはじめ、僧 寺工 瓦博士 画工 などを派遣して来ました。

その時の瓦博士の作った日本最初の瓦は、その後この寺が奈良の現在の地に移った際も運び移され、現在の本堂、禅室の屋根に今も数千枚が使用されていて、重なりあった丸瓦の葺き方は行基葺きと言われているそうです。

今回 法輪舘内で飛鳥時代の本物の瓦に直接触れる事が出来る貴重な機会でした。

写真パネルや古代瓦を作成する道具の展示もあり飛鳥時代の技術の高さに驚き感動しました。

法輪舘にある五重小塔は国宝でその部材の大半は奈良時代のものだそうです。                   内部にはスリランカからもたらされた舎利が納めらています。

平安時代の聖徳太子立像の中にも舎利容器や舎利が納められていることが分かったそうです。

聖徳太子十六歳孝養像の右足部分にも五輪塔や舎利があるとの説明がありました。
元興寺極楽坊縁起絵巻は全二巻あり奈良時代 元興寺に住した智光法師の伝記で全長11メールを越える長さでした。

極楽坊の本尊の厨子入 智光曼荼羅は智光法師感得と伝えられていますが、土一揆で消失し今は二代目だそうで、厨子の内 曼荼羅前の床面には金蓮舎利容器が安直されていた痕跡があり両扉に描かれる四天王像がその舎利を守るように描かれいます。

元興寺の境内も今までにない世界観を感じます。

本堂の北側の一角には蛙石と呼ばれる大きな石がありました。

うずくまった蛙の形をしているのが蛙石と呼ばれる由縁ですが、この蛙石はもともとは大阪の河原にあったのが豊臣秀吉に献上され大阪城 乾櫓の対岸に置かれました。

不思議なことに、大阪城の堀で溺死した死体は全て蛙石近辺に流れつくので大阪夏の陣で亡くなった淀君の念が憑いている言われて一時撤去され行方不明になっていたそうです。

その後、再発見されこの元興寺に移設 供養され今では怪異も無くなったそうで、毎年七夕には供養祭もとりおこなわていると言うちょっぴり怖いお話でした。

すごい歴史の詰まった元興寺境内をあとにして、かつてはあった五重の大塔あとや小塔院跡を探しに行きました。

京都に比べて心持狭い道は碁盤の目のようでもありますが、突然突き当たりまた曲がって伸びて行きます。

しばらく歩いていると塔跡の石碑を見つけたので中に入って行きました。

中はひっそりとしていて静けさがあります。

塔跡の礎石からずいぶん立派な塔だった事が分かりました。

塔跡の直ぐに隣には、啼き燈籠がひっそりと立っていました。

もともと元興寺の境内にあったものを貰い受けて京都へ持ち帰ったそうですが、毎晩「帰りたい、帰りたい」と啼くので気味が悪くなり元興寺に帰したとか。

昭和になって起こった地震で倒れて壊れたのを繋いだ継ぎ目もはっきりと分かりました。

また通りを小塔院あとを探してならまちを歩きます。

赴きのある建物を見ながら歩いて小塔院跡を発見しました。

反対側に回ると入り口がありました。

登って行くと今は荒れ果てた様子でした。

古の都の奈良、飛鳥時代からの元興寺。

かつてはならまち一帯が元興寺の境内だったそうですが、織田信長、豊臣秀吉政権が奈良に進駐した事を契機にそれまで元興寺を支えてきた古い権威が次第に奪われてゆき江戸幕府の成立で急速に都市開発が進み境内の中に家が建ち始め町になって行ったそうです。

古い町並みの残る「ならまち」ですが、歴史を紐解くと実は奈良の中では意外に新しい「ならまち」なのでした。

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古跡で巡る宇治十帖

しばらく振りの宇治には今回は京阪電車で行きました。

電車もお茶色で車内もお茶色なのはやはりお茶の産地としてのプライドなのでしょうか。

駅を降りて直ぐに目に飛び込んで来た電話ボックス。

平等院の鳳凰をモチーフにしているようです。

前回 宇治巡りのテーマは「お茶」でしたが、今回は「宇治十帖」古跡を巡る旅と復元された平等院を見る目的でした。

古跡は主に江戸時代の人々が架空の源氏物語ですが、その物語はこの辺りの事だろうかと創造して立てられたそうです。

源氏物語の光源氏の物語は涙ながらに紫の上の手紙を焼き出家の準備をするところで終わっています。

光源氏 52歳の冬の事でした。

そしてそれから二十年の歳月が流れ、光源氏は既にこの世には亡く物語の舞台は宇治に移されました。

源氏物語が誕生した平安時代 宇治は別業と呼ばれる別荘地でした。

貴族たちは、ここ宇治で夏には川遊び、秋には紅葉狩りと自然を楽しんだ事が藤原道長の日記「御堂関白記」にもうかがえます。

更に紫式部は、藤原道長の別業(後の平等院)があった宇治川の西岸に光源氏の息子 夕霧の別業を配し、現在の宇治神社や宇治上神社のある東岸に八の宮の住まう山荘を配し、宇治川を挟んで西岸を極楽浄土、東岸を現世として対照的に描いているようです。

最初に、東屋(50帖 あづまや)の古跡を探していると目に入ったのが「うじのわきいらつこ」のお墓の碑でした。

菟道稚郎子は八の宮のモデルとも言われる応神天皇の皇子で兄の仁徳天皇に皇位を譲り自ら命を絶った悲劇の皇子です。
その石碑のすぐ側に東屋がありました。

東屋観音は鎌倉時代の石仏だそうですが、なぜこの場所にあるのかは分からないそうです。

そして、椎本(46帖 しいがもと)の古跡があるのは彼方神社ですが、古くは宗像の神を祀ったそうです。


その先に手習(53帖 てならい)が見つかりました。

昭和になって立てられた石碑は手習いの筆の穂先のようです。

ここで一休み

エネルギーをチャージして紫陽花のうつくしい三室戸寺に向かいます。

途中 民家の間に発見した蜻蛉(52帖 かげろう)の古跡

蜻蛉の古跡の側にあるのは平安時代に石に線で彫られた阿弥陀三尊です。

更にどんどん歩いて行くと、三室戸寺の参道に着きました。

満開の紫陽花の中を歩いて鐘楼の近くにある

浮舟(51帖 うきふね)の碑は古そうです。

もともとは奈良街道の側の浮橋社にあったのが移転を重ねて今の場所に。

源氏物語ミュージアムや宇治上神社近くのさわらびの道には

総角(47帖 あげまき)と

早蕨(48帖 さわらび)がありました。

この辺りが八の宮の住まいとされているようです。

宇治橋まで戻って橋を渡ると紫式部のモニュメントと共に夢浮橋(54帖 ゆめのうきはし)があるはずです。

残念ながら工事中でフェンス越しにパチリ。

こちらは以前来た時の写真です。

平等院の近くには縁切り神の橋姫神社がありますがもともとは橋の守り神で宇治橋の出っ張った場所(三の間)にあったのが洪水で流されてこの場所に。

蛍塚近くの宿木(49帖 やどりぎ)があり更に行くと天ヶ瀬のつり橋があります。

この十箇所の古跡はいずれも歴史上のある段階で「何か」があった場所でしたが、いまではその「何か」が無くなってしまい、宇治十帖古跡と言う案内表示が古跡そのものになってしまっている所もあるそうです。

紫式部は物語の終焉の地にこの宇治を選びました。

宇治十帖は「橋姫」で始まり「夢浮橋」で、終わります。

これは、平安京と宇治を繋ぐ橋であり、現世と浄土を繋ぐ橋、男女の関係そのものを繋ぐ橋と考えらると源氏物語ミュージアムは解説していました。

今から1000年も昔の物語ですが、今も昔も変わらない事があるのだなぁとつくづく思いました。

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甦った平安色彩の平等院と源氏物語ミュージアム

少し前になりますが、紫陽花の季節に宇治を訪ねました。

修復工場も終わり平安時代に最も近い姿に復元修理された鳳凰堂を是非とも見たいと思いました。

鳳凰堂の見学には別にチケットが必要なので平等院に入場して直ぐに鳳凰堂見学のチケットに並びました。

待ち時間は一時間ほどでしたのでその間に宝物館の見学をしました。

平等院 鳳凰堂はホームページによると

永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としました。この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。

10円のデザインでも有名です。

平安時代に近い復元を終えた鳳凰堂ですが、鳳凰堂と呼ばれるようになったのは江戸時代の始めの頃だそうで、建物全体が鳥が羽を広げた形に似ていることや、中堂の屋根の棟飾りとして一対の鳳凰が取り付けられていることから、名付けられたそうです。

藤原頼道は末法と言う時代にこの平等院に浄土を表す極彩色の世界を作り上げました。

内部は撮影禁止なのでパンフレットより

(平安色彩美への旅   よみがえる鳳凰堂の美より)のデジタル復元では本当に色鮮やかです。

1000年の時をこえてその世界観を堪能しました。

平等院を後にして宇治川を渡るとすぐに源氏物語ミュージアムがあります。

平安時代 都が平安京に遷都されて以来ここ宇治は王朝貴族の別業(別荘)地とされていました。

藤原道長の日記「御堂関白記」をはじめ当時の貴族の日記には、夏は宇治川での川遊び、秋には紅葉狩りと宇治が貴族の生活の場になっていたことが伺えます。

源氏物語の中でもこの地で暮らす八の宮、その娘である大君  中の君と都で暮らす薫と匂宮との出会いが源氏物語の最終章の「宇治十帖」の舞台となっています。

宇治神社

宇治上神社

源氏物語では藤原道長の別業(平等院)がある宇治川の西岸に光源氏の息子 夕霧の別業を配し、現在の宇治神社や宇治上神社などのある東岸に八の宮の住まう山荘を配しています。

まるで宇治川を挟んで東を現世、西をきらびやかな極楽浄土を創造させる紫式部の世界観に魅了されてしまいました。

Mrs.Yの備忘録2

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