紫式部のお墓と雲林院

10年以上前になりますが、イギリスのハドンホール城を訪れた時 イギリス人かフランス人だったか?忘れてしまいましたが、「源氏物語を読みましたか?」と話しかけられた思い出があります。

その人は1000年前にこのような小説があったことに驚きと感動を覚えるっと言うような内容を話されていて、海外の方が源氏物語を知っていることがとても不思議だった記憶があります。

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(宇治橋のたもとの紫式部)

今 1200年前の平安京を巡りながら源氏物語の架空だけど、本当にあったお話のようなリアリティーを覚える
物語に関わりのある地も同時に巡っています。

全編 しっかりと深くは読めていないけれど、心に残るエピソードや登場人物の心境を感じながら、舞台となった場所を訪れる楽しさを大切にしています。

今日はそんな一千年も前の人だけれど、今の人の心を掴む魅力的なストーリーを描いた紫式部さんのお墓を訪ねてみました。

新幹線で京都駅に到着したら、すぐに市バスのB1乗り場に向かいました。
乗るのは9系統で降りるのは北大路堀川です。
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北大路堀川には今までも何度も何度も降りたったのに、紫式部のお墓に行くのは初めてです。

北大路通りの交差点を渡り少し下って西側に紫式部のお墓の碑が直ぐに見えました。
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今年の京の冬の旅で訪れた六道珍皇寺であった小野篁のお墓のお隣に紫式部のお墓がありびっくりです。

そう言えば 閻魔寺と言われる引接寺は小野篁の別宅だったそうで閻魔さまの像や小野篁の像もあったのですが、
紫式部の供養塔もあったことを思いだしました。
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紫式部さんと小野篁さんなにか 関わりがあるのでしょうか。
謎ですよね!
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紫式部の誕生年は970年とも973年とも 978年とも諸説ありますが、いずれにしても970年代円融天皇の時代に生まれたようです。
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父は藤原為時です。
996年 父為時が越前守に就任すると一緒に越前国に向かいますが、998年の春頃 式部は越前より帰京し間もなく山城守藤原宣孝と結婚します。

翌年 娘の賢子が生まれますが、1001年 夫 宣孝は疫病にかかり死去してしまいます。

文才を買われて藤原道長の娘 一條天皇の中宮彰子のもとに女房として出仕するのは1005年あるいはその翌年と言われているそうです。

「源氏物語」は1008年頃 宣孝と死別してから開始されたと考えられているそうです。
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(一條通り近く。今は公園になっている一條院あと。
この一條院裏手で紫式部は執筆したようです)

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(一條院あとの公園)

宮廷生活を中心として、世相を描写した源氏物語は、関白 藤原道長の比護の元、中宮彰子のもとで摂関政治の最盛期の最中に執筆されたようです。

1010年頃には、宮廷でも評判になったとか。

源氏物語は、主人公の光源氏の出生以前から、その子孫たちにまで及びます。

物語は光源氏の70年もの虚構の世界が描かれたものですが、紫式部が生きた平安時代の文化や歴史を反映しています。

当時の出土品として、土師器に墨で書かれた和歌が発見されていますが、新体仮名で記されていて、紫式部もこの仮名の発明があって初めて源氏物語を執筆出来たそうです。

一條天皇は、1011年に死去します。
紫式部は、引き続き彰子の側近として仕えました。

紫式部の没年は不明だそうです。
宮仕えを終えた後ももしかしたら源氏物語を執筆していたようで完成時は分からないそうです。
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紫式部のお墓の近くには 晩年 式部が住んでいたと言われる雲林院があるので北大路通りを西に歩いて行きました。

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現在の雲林院は、大徳寺と目と鼻の先にありました。

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雲林院の入り口には源氏物語の看板があり その説明に由ると平安時代の雲林院はもう少し東側だったようで現在はマンションが建っているみたい。
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また北大路を東に歩きマンションの周りをぐるりと回ってみました。
かつてこのマンションの敷地から雲林院の遺構が発見されたそうですが、大
規模な修繕中なのか、周りをぐるりと
カバーされていて様子は伺えませんで
したが、かろうじて入った中庭には
それとなく いにしえの薫りがしたように感じました。
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マンションの裏手にある玄武神社。
此の辺りは紫野雲林院町で、文徳天皇の皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を祀り、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼ばれているそうです。
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社名の玄武とは、青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつで、この神社が平安京の北にあることから北面の守護神としてこのように名付がついています。
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かつて都の外れだったであろう紫野。
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大徳寺の塔頭の真珠庵には紫式部が産湯をつかったとされる井戸もあります。
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紫式部の名前の由来ですが、
この紫野から紫式部と呼ばれたとも
源氏物語の中で理想の女性として描かれる紫の上の紫からとも言われていますが、此の辺りで生まれて また晩年もこの辺りに足跡を残したのはたしかな現実のようですね。

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