西本願寺の横の島原口を歩いて行くと
まるで時間が遡って行くような印象を受けます。
大門をくぐり石畳を歩いて行くと角屋の塀づたいに東鴻臚館跡の碑が見えて来ました。
1200年前の平安京時代 朱雀大路(今の千本通り)を挟んだ東西に外国から来た貴賓をもてなす鴻臚館が建っていました。
島原は東の鴻臚館があった場所にあたります。
島原の歴史を紐解けば、始まりは天正17年(1589年)。
足利家の家臣であった原三左衛門が豊臣秀吉の許しを得て万里小路二条(現在の柳馬場二条)にお茶屋や料理屋を集めて遊興の街としたことが始まりだそうです。
『柳町』と呼ばれ大いに評判を得て人びとが遊興に及びましたが、徳川家康が御所に近いこと、二条城 造営の名目で六条の地に移転させ そこは東は室町通り西は新町通り 南は六条通り 北は五条通りに股がり『六条三筋町』と呼ばれました。
更に1641年 京都所司代の命で現在のJR丹波口近くの地に。
あまりに突然の事で大騒ぎになり あたかもその前年に起こった島原の乱のようだと言うので『島原』と呼ばれるようになったとか。
正式名は西新屋敷だそうです。
島原は輪違屋と言う今でも四人の島原の太夫が在籍する「置屋」と
明治5年以降 太夫を呼んで遊ぶ「揚屋」今で言うお茶屋さんの分業制で構成されているそうです。
島原の角屋さんは島原開設当時から創業していて現在の規模になったのは
1787年の増築後だそうです。
角屋さん 入り口
臥龍松
昔の松は大正時代に朽ちてしまいましたが、
初代の臥龍松は国定や広重などの浮世絵にも描かれ『都林泉名勝図絵』にも紹介されたそうです。二代目は三本の松を初代の様子仕立てているそうです。
因みに江戸の吉原では揚屋は1760年に完全に消滅したそうです。
島原は単に遊興することに止まらず文藝 俳諧も盛んでサロン的な要素もあったようです。
幕末になると新撰組の出入りもあったそうですが、池田屋のような騒動は起こらなかったそうです。
しかし、1863年 新撰組 初代総長 芹澤鴨が角屋での遊興のあと 壬生の屯所 八木邸に帰宅後 暗殺されると言う事件がありました。
明治維新後は、大型宴会の需要もなくなるとともに、足場の悪さもあり島原全体が衰退し、次第に祇園が花街の主役になって行ったそうです。
角屋さんの一番古い部分の建物は柳馬場二条よりの建築が残されていて襖絵も当時の物と聞いて驚きでした。
建物の造りもこだわり抜いたもので
とても貴重な物だと思います。
角屋さんは現在
角屋 おもてなしの文化美術館として
当時の面影を伝えています。
角屋さんから芹澤鴨の足取りをたどり
壬生屯所 八木邸まで歩いて行く事にしました。