京都 秀吉の足跡 その続き

少し前にも秀吉の京都での足跡を探して歩きました。
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秀吉と言うと大阪のイメージが強いのですが、京都にはたくさんの足跡を残しています。
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前回は西陣のあたりにあったと言われる聚楽第界隈を巡ってみたのでした。
聚楽第の石碑は二ヶ所にありました。

その時には聚楽第とともに昔の平安京の大内裏跡も合わせて巡っていたのですが、ちょうど平安京の内裏の北東の一部あたりに聚楽第があったようなのです。

その証拠に正親町小学校前に聚楽第の碑と平安京大蔵省跡の碑が近くに建っていました。
正親町小学校からは金箔を張った瓦などが出土したそうです。
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平安京を体感出来る平安京創生館に展示されていました。

また京都市では平成20年に源氏物語千年紀を迎えるにあたり 近年の遺跡発掘調査から『源氏物語』の中心の舞台である内裏跡を中心に平安宮跡や平安京跡ほか、源氏物語ゆかりの地40箇所を選定して説明板を設置しました。

その大蔵省 大宿直跡として説明板もありました。
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その直ぐ 東隣には現在戦没地碑のある公園に源氏物語の一條院跡の説明板もありました。

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かつて聚楽第の周りには戦国武将の京都の屋敷があったそうで一條通りを一條の戻り橋の方に歩いていくとそのあたりは如水町と名前があったので黒田如水の屋敷跡を探してみました。

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ご近所にお住まいの方に伺うこと三人目にしてやっとご存じの方に教えて頂く事が出来ました。

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一條の戻り橋 直ぐ近くでかつて千利休の屋敷があった安倍晴明神社とは目と鼻の先でした。
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利休さんと如水こと黒田官兵衛はご近所さんだったのですね。

聚楽第は秀次が高野山で切腹させられたあとに、秀吉自身によって取り壊されてしまったそうですが、その聚楽第の遺構と言われている唐門(国宝)が大徳寺の本坊に残されています。

今年の京の冬の旅では、19年ぶりの公開でした。
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見ごたえのある唐門は1日見ていても飽きないので日暮門とも言われているそうです。
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最近 訪れた阿弥陀ヶ峰の秀吉のお墓
が見下ろしている場所に高台寺があり
北の政所(ねね)の廟はあります。

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↑写真はネットより

もしかしたら高台寺より北の政所は
秀吉のお墓を見ていたかも知れないと思いました。

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また今年の京の冬の旅では妙心寺の玉鳳院の拝観もありましたので行って来ましたが、その時に幼くして亡くなった鶴松の霊屋(おたまや)にお参りしたのでした。
鶴松が亡くなったのは秀吉が栄華を極めていた時で盛大にこの妙心寺で葬儀を行ったそうですが、豊臣が滅んでからのこの鶴松のお墓の流転は涙を誘いました。

霊屋の写真も禁止でしたので、ネットより探してきました。

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秀吉 ねね 鶴松のお墓をお参りしたら、今度は淀君のお墓にもお参りしたいと思い大阪に向かいました。

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大阪駅より少し歩いたところにある
太融寺は、弘仁12年(西暦821年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により、この地に創建されま した。
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ご本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子河原左大臣源融公がこの地に八町四面を画して、七堂伽藍を建立され、浪華の名刹として参詣者でにぎわいました。
当時を偲ぶ境内地の名称は今に伝えて、太融寺町、堂山町、神山町等として残っております。

元和元年(西暦1615年)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼しましたが、元禄年間に本堂、南大門など諸堂25棟が復興して 「北野の太融寺」と人々に親しまれ大いに栄えました。
(太融寺 ホームページより)
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この太融寺の片隅にひっそり淀君のお墓はありました。

大阪夏の陣で淀君と一緒に自害した秀頼の墓は養源院や また源融の墓のある清凉寺に秀頼の首塚があるそうです。
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源氏物語の光源氏のモデルとなった源融の足跡も辿りたいと思い始めたのでした。

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